Amazonで検索する

【感想※ネタバレ有】宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』の考察・レビュー

生活・趣味

宣伝活動をほぼしてないにも関わらず、公開10日で興業収入36億円を突破したというジブリ最新作、宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』。賛否両論、評価が真っ二つに分かれているというニュースをみて、どういうことなんだろう?と興味を持ったので早速私もみに行ってきました。

感想の第一声としては「世界観むず!」という感じ。笑

いわゆるラブストーリーや家族愛の物語でもなく、主人公が冒険を通じて成長していくものでもありません。何を伝えたかったのかは直観的にはわかりませんでした。

ただ、なんとなく後々こういうメッセージだったのかな?と考えがまとまってきたので簡単に書き記したいと思います。

Sponsored Link

 

メインメッセージ

さまざまなシーンの意味をじっくり考えて思ったこの映画のキーメッセージは、生きにくい世界(現実社会)でも逃避せずに生きていく大切さを伝えるものだったのではないかということです。

真人、ナツコ、祖父、それぞれが現実世界で悩みを抱えており、その逃避先としてこの異世界は存在していたのではないかと考えています。

Sponsored Link

 

現実世界の真人

真人は戦争中に火事で母を亡くしており、戦後には、自分の父が母の妹ナツコと再婚します。真人はナツコのことを度々「父が好きな人」と説明していました。「新しい母」ではなく「父の好きな人」というのは少し引っかかる言い方で、達観しているというか、一歩距離を置いているような印象を受けました。

学校でも友人に心を開く様子もなく、さらには、自ら頭を石で殴って怪我を負うシーンもありました。真人が笑っているシーンは一切なく、全てに対して無気力で感情の起伏が薄く、現実世界に失望しているように感じました。

Sponsored Link

 

生と死、現実逃避

そんな真人は、アオサギに導かれて異世界に入り込みます。

異世界では、ペリカンやインコが襲ってきたり、石(墓石)に謎の力が宿っていたり、祖父が世界の均衡を保つための石を積んでいたりと、独特な世界観のシーンが描かれていました。

ワラワラが空に飛んでいくシーンでは、その世界は生命のスタートの地のように描かれていました。一方で墓石には強力な力が宿っており、死の象徴として描かれていたように感じます。その後も死を想起するシーンが多く描かれていました。

ペリカンはこの世界に送り込まれ、ワラワラを食べるしか生きる道がないと言いました。インコは平然と人を殺して食べようとしていました。苦しみながらも仕方なく命を奪うペリカンと何も考えずに平気で命を奪うインコ。対極のように描かれる2種の鳥、ただ、大勢で集まって寄ってたかって命を襲う点は共通していました。

現実世界から引き込まれるように入った異世界は、決してユートピアのような場所ではなく恐ろしい場所でした。この辺から、現実逃避してどこかに逃げ込んだとしても決して平穏な場所はないということを表しているように感じました。

現代社会で例えると、現実逃避のためにリアルな人間関係を断ち、SNSなど匿名での繋がりの世界だけで生きていくというのはよくある光景だと思います。ただSNSも決して平穏な場所ではなく、インコのように無慈悲に人を傷つけてくる人もいます。ペリカンのように人を傷つけることでしか自分の存在価値を保てない人もいます。

逃避したはずの場所でまた傷けられる、そしてそれは時として死につながることもある、そうした状況が鳥たちの登場シーンでは表現されていた気がします。

Sponsored Link

 

書籍に逃避した大祖父様

また、この異世界の入り口は、真人の祖父の書籍が大量にある場所でした。大祖父様は本を読みすぎて頭がおかしくなったとも言われており、大祖父様自身も現実逃避として書籍漬けの生活を送っていたのだとすると、真人と重なるところがあります。

映画の最終シーンで、大祖父様が石を積んで世界の均衡を保つ必要があると訴えるシーンがありましたが、決してあの積み石は現実世界を安定に保つためものではなく、自分で作りあげた自分だけの世界(異世界)の均衡を保つためのものだと思います。実際、積み石が崩れて壊れたのは異世界の方でしたしね。異世界を継続させること、つまり、逃避をし続けることを祖父は真人に勧めてたんじゃないかなあ。

真人は石を積むことを断り「現実世界に戻って友達を作る」と発言していたので、逃避した世界に閉じ籠るのではなく、例え、現実世界が不条理な世界だったとしても、その世界に地に足つけて生きていくとことを決めたのかな、と思いました。

Sponsored Link

  

新たな命、ナツコの葛藤

妊娠中のナツコもこの異世界に紛れ込んでいました。生死に関することはすべてこの世界を通るのかもしれませんが、ナツコも現実を直視しきれずこの異世界に紛れ込んだのではないかとも思います。

ナツコは、新たな命をお腹に宿してちょうどつわりに差し掛かった頃で悩みを抱えていたのかもしれません。姉を亡くし、姉の旦那の後妻になり、姉の子供を育てながら、自らの子供を妊娠しているという状態で、心身ともに不安定な状態だったのではないでしょうか。

ナツコは、愛を持って真人に接していたように見えます。大事にしていたからこそ、自分の子が生まれたら真人は今以上に自分の存在価値を見失ってしまうのではと不安を感じていたのではないでしょうか。また、この映画では現実世界は決していい世界としては描かれていません。そのため、自分が産んだ子が本当に幸せになれるか、そもそも産むこと自体がその子にとっていいことなのか、悩んでいたのかもしれません。真人のように心を閉ざした少年を近くで見ていたからこそ、余計複雑な気持ちになってしまっていたのかもしれません。

産屋がどういう場所かは分かりませんが、他人が入ることは禁忌(タブー)だと言われていました。個人的には、母親がひとりで我が子について考えるための場所だったんじゃないかと思います。子供ができることは普通に考えればとても幸せな出来事です。そのはずなのに、複雑な気持ちを抱えているナツコは導かれるようにこの産屋にたどり着いたのかもしれません。真人に「大嫌い!」と言ったのも、このような複雑な気持ちが入り混じり、愛情と憎しみが混じって言い放ったのかもしれません。

 

Sponsored Link

 

以上、細かい考察を積み上げると、この映画では、不条理な現実世界での苦しみ、逃避先での新たな葛藤などが描かれており、メッセージとしては「生きていく中で不条理な出来事が行ったとしても、拒絶や逃避をするのではなく、それらを受け入れながら生きていくことが大事」ということなのかなと推測しました。

 

個人的な解釈なので全然的外れかもしれませんが。。

長文読んでいただいてありがとうございました。おわり。

タイトルとURLをコピーしました